逡巡しながら日記。

小鳥と人間のとるにたらない日常。

今日のギター #50

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今日のギターは、「アルペジオ」でした。

芥川也寸志さんの「音楽の基礎」を読みました。演奏者にとっては、当たり前なことなのだろうけど、おもしろいなと思ったところを少し。

演奏技術に「ルバート」という技術があり、「盗まれたテンポ」ともいわれる。

(ルバートは)音楽に表情をあたえるために演奏者が行なう、わずかな部分的な速度の増減をさす言葉で、緩急法と訳されている。

「音楽の基礎」芥川也寸志著 133頁

演奏家にとっては常識的な事柄だが、ある部分をねばって弾いた時には、その後のテンポをその分だけつまんで早く演奏するのが、感覚的にはつりあいがとれて、ルバートの効果がある。盗んだものは返しておく、というわけである。

「音楽の基礎」芥川也寸志 134頁

たとえばショパンの音楽は、楽譜をただ忠実に演奏するだけでは音楽と言えないような陳腐で無味乾燥なものになる。ショパン自身はロマン主義的な作曲家を軽蔑しながらも、上記のようなルバートを多用しなければ表現にならない音楽を書いた。

テンポ・ルバートは音楽を装飾する手段ではなく、ショパンのように、ある場合にはその音楽の、あるいはその作曲家の本質につながるものである。

「音楽の基礎」芥川也寸志著 134頁

皮肉にもロマン主義を軽蔑していたショパンの影響下で、19世紀の音楽はルバートの多用を前提とする独特な音楽感をつくりだした。20世紀になると、このようなロマン主義的音楽のカウンターが起こりはじめる。その一人がストラヴィンスキーだった。

ストラヴィンスキーのスコアが厳重な警備に守られた宮殿だとすれば、最近の傾向をもったスコアは、開店時間中は出入り自由なスーパーマーケットみたいなものであり、この種の音楽を演奏するためには、ただ忠実にスコアを追って音を出していけばいいという態度では、演奏者の資格はなく、作曲者の領域にまで足を踏み入れないかぎり、演奏者はつとまらない。

上記と同様 135頁

ストラヴィンスキーがおこなったように、ロマン主義的音楽を否定するためには、左右に大きく揺り動かす必要があったのだろう。だからといってロマン主義にはもどれない現在、演奏者に求められているのは、作曲家の領域、つまり作曲家の思想を考慮すること。そして作曲家が音楽にこめた想いを理解し、それを踏まえて演奏する曲を選ぶことが求められている。自分がどの立場に立つか、選ばなくてはいけない、ということだろうか。